消防士火神君と保育士黒子先生(電話編)4

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☆……☆……☆



「……あ〜……、火神っち……?」
 黄瀬が訊ねる声が耳を素通りする。
「……おう」
 オレは呆然としたまま、スマホをテーブルの上に伏せた。
 何が起きたか、ぜんっぜん、わからなかった。
 黒子先生がくれた電話は一方的で、取りつく島もなかった。
 電話をくれたんだから映画の話だろうと思ったし、いつ行けるかと水を向けようとした途端にアオミネとかっつー彼氏の話で遮られて……。
『彼氏』
 自分の考えたことで、初めてその単語が胸に迫って来た。ズキッと痛んだ胸を手で抑える。
「電話……どうだったんっスか……?」
 黄瀬がおそるおそる、という声の調子で問いを重ねる。らしくない、遠慮がちな声だ。
 答えを聞きたくなさそうな雰囲気がにじみ出てるのは、鋭い黄瀬のことだから、電話中のオレの様子で、何が起きたかだいたいわかってんだろう。
「……フラれた」
「……え、」
 黄瀬を振り向いて呆然と言ったオレに、あいつは口元を引きつらせてかすれた声を出した。
 一瞬視線を外して何度かまばたきする様子は、オレを慰めるか励ますか、それともしないか、迷ってる顔だ。
 金髪に片耳ピアスにイケメンで、チャラチャラして見える黄瀬だけど、長いことトモダチとしてやって来れただけあって中身はいいヤツだ。
 大事な話になったら、その場しのぎに適当なことを言ったりしないところも信用してる。
 そういう黄瀬が簡単に励ましたり否定して来ないってことは、状況がかなりまずいってのも伝わってんだろう。
「……彼が待ってるから切る、つわれた。……またお迎えのときに話そうってよ……」
 お迎えのとき、つーのは、先生と父兄としてだけ、って意味だろう。
 すげーハッキリきっぱりした断り文句に、冗談みたいな状況だと自分でもおかしかった。なのに、笑おうとした口元が引きつって、どうしても笑えない。
「……そう、すか」
「おう。彼氏といるときにわざわざ電話かけてきて、っつーことは……アレだよな」
 アレとか言いながら、自分でもどういう意味だかわかってねぇ。
 とにかく呆然としてて、ショックで傷ついてもおかしくないのに、気持ちがマヒしたみたいに、もう痛みは感じてない。
「ああ、いや、彼氏が間違えて掛けちまった、つってた。間違えて掛ける訳ねぇだろ、普通に考えて。……嘘はやっぱ下手だな」
 黄瀬がどんどん心配そうに表情を曇らせるのを見て、オレは冗談にしようと言葉を重ねて肩をすくめる。
 確かにちょっとはショックだけど、胸は全然痛くない。
 意外と大丈夫なんじゃねぇか、と自分で思った。
 なのに、黄瀬にオレが平気だってことをわからせようとしても、どうもうまく行かない。
 鼻の頭にしわを寄せて苦笑して、笑って見せたのに、黄瀬はむしろ真面目な優しい瞳になって、オレを見つめ返してくる。
「うん」
 黄瀬の静かな声のあいづちを聞いて、あ、これはやべぇときの声だ、と思った。
 ときどきあいつが見せる、しみじみとした優しい調子。ふざけたり、からかったりせずに、心地いい距離感で、そばにいてくれるときの。
 否定も肯定もせずに、オレの言葉をただそのままに受け止めてくれる声と瞳に、オレはぐっと胸が詰まりそうになった。
「……まぁ、けど、心配してたのは杞憂だったぜ。先生、優しいからさ、父兄のオレに誘われたら、立場上断りにくいんじゃねーかって心配してたけど……結構はっきりしてた。ああ、そーか、ヤマトナデシコは芯が強いっていうもんな!?」
 わはは、と笑ったオレに、黄瀬は黙って何度かうなずく。
 目を合わせていられず、オレがグラスに目を落とすと、しばらく黙ってた黄瀬がやがて口を開いた。
「火神っち」
「おう……?」
 何を言われるのかと身構えて、知らず身体がこわばる。
 黄瀬がドン、と絶妙な力加減のこぶしでオレの背中を叩いた。
「……今日は、好きなだけ付き合うっスよ」
 目を上げたオレの前で、黄瀬がニカッと笑う。軽く首をかしげるようにして、どこかが痛むような表情で。
 オレは胸が詰まって息ができなくて、一瞬答えられなかった。それから自分も同じようにデカい口を開けてニカッと笑って
「ああ、頼むぜ。さすがに今日は……ひとりになりたくねぇ気分だ……」
 つぶやく間に涙が込み上げて、視界がにじむ。戸惑い言い終えた瞬間に、ひとつぶボロッとこぼれる。
 そのことに自分で驚いて、口元を手で覆った。
「……っ」
 胸がズキッと痛む。
 先生のあの、可愛い、控えめな笑顔が目に浮かんでくると、途端に胸の痛みが抉るような激しいものに変わる。
 一週間も経って、電話で断ってくるなんて。
 おまけに、園ではオレの目を避けるようにして、いつも他の誰かと話してた。
 優しい人だから、きっと父兄に誘われて困ったに違いない。一週間もの間、どれだけ悩ませただろうと思うと、可哀想になった。
 彼氏のアオミネってどんなヤツだよ、知らねぇよ、と突っ込みたくて、でもそれもきっと先生が精いっぱい、オレにわかりやすく思い知らせようとしたんだとわかって、つらくなる。
 ……先生には父兄の範囲を超えて、結構プライベートに突っ込んだ話もしてたし、強気で押しまくってた自覚があるからだ。
 普通に断ったんじゃ引き下がらないと思ったんだろう。
 実際、もし彼氏がいるって知らなきゃ、もう2、3歩押して、「せめて一度デートしてみようぜ」くらいは、食い下がってた自信もあった。
 けど、別にしつこい性格な訳じゃねぇ……と思う。これまで誰かをそんなに必死で追いかけたこともなかった。
 ただ、先生のことだけは、あきらめきれなかったんだ。

 初めて見たときの、華奢な先生の姿を思い出す。
 雨のしずくに濡れて、どんよりした曇り空の下で淡く輝くように見えた。
 初めて会うタイプだった。この人以外には、こんなに好きになれる相手には絶対に出会えないと思った。
 いつもの送り迎えの日常、なんでもない朝の光がすげー特別なものみたいに、先生だけがきらきら輝いてた。
 いつも潤んできらめいてた、澄んだ瞳。
 オレンジの西日を浴びて、いつもどこか困ったように控えめな笑みを浮かべてた。
 微妙な形に寄せた眉。頼るような上目遣い。ほのかに上気して見えた、滑らかな頬。
 全部がたまらなく、好きだった。

「っ、……」
 ひくっと胸が震えて、目元を手で覆う。
 黄瀬がオレの肩を抱いて、軽く揺さぶる。コン、と肘にぶつけてきたグラスのウイスキーを、一息で飲み干す。
 冷やりと苦い感触が、のどを灼きながらすべり落ちていく。抉られるような胸の痛みがまぎれるかと思ったのに……ますますひどくなるばかりだった。



きりの


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